2008年04月22日
日本の心を伝える!パラオのおはなし
(心暖まるお話パートⅢ)
このお話を読ませていただき、涙が止まりませんでした(^^;)ほんとに素晴らしいお話ですよ!!
<世界で最も親日的な国>
「パラオのおはなし」
パラオは1994年にアメリカから独立した時、日本の国旗である日章旗をモデルにした月章旗を作り、時刻の国旗にした。日本の日の丸が太陽を模しているのに対し、パラオはほぼ同じデザインの色違い(青地に黄丸)で太平洋に浮かぶ月を象った。ただ、パラオは国旗の月は日本の太陽と違い、中心から微妙にずれている。これは謙虚にも「同じでは日本に失礼だから」と、わざと中心をはずしたのだという。パラオは日本の国旗を元に自国の国旗を作り、しかも日本の心も忘れない。現地民に愛された日本統治と、受け継がれる礼儀正しい民族性が現れている。ちなみにパラオの国定教科書には全462ページのうち36ページが日本統治時代にあてられ、章には「日の丸の旗の下」というタイトルがつけられている。どの統治国も日本は教育に厳しかったが、それらの教えもルールも単純な賛美など客観的に事実が教えられている。また、今でもパラオでは日常的に沢山の日本語(たとえば「扇風機」「大丈夫」「浴衣」「どうぞ」「大統領」など多数。日常的すぎて現地の若者はそれが日本語であることを認識していないほど)が残っていたり、「桜」の樹が無い国にも関わらず、桜の花に抱く美しいイメージだけで歌を作り、今も愛唱されていたりと、台湾よりもさらに親日的である。日本の統治が終わった時にはパラオでも米国による反日教育が行われたが、年長者に「そんな話はない」とあっさり否定され、浸透しなかった。ちなみに一部に州では英語と日本語が併用されており特にアンガウル州ではアンガウル語、英語に並び、日本語が公用語として使われている。また、パラオ人の「8割」はその姓名のどちらかに「日本式の名前」を付けているといわれる。
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。「あそこでみんな死んでいったんだ・・・・」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地がつくられた。老人は村の若者達と共にその作業に参加した。日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況が日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。仲間達と話し合った彼は代表数人と日本の守備隊長のもとを訪れた。「自分達も一緒に戦わせてほしい!!」と。それを聞くなり隊長は激高し叫んだという。
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!!」・・・・日本人は仲間だと思ってたのに・・・・・
にせかけだったのか。裏切られたおもいで、みな涙を流した。
船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に出てきた。そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
その瞬間、彼らは悟ったという。あの言葉は、自分達をすくうためのものだっと・・・・・・。
「パラオの統治者である日本軍」としては、パラオ諸島の小さい島・ペリリュー島の民間人を“圧倒的不利な戦局”に巻き込んではならないと配慮したのだ。そして船舶も乏しい中、空襲を避けて夜間に船を出し、住民の全員をパラオ本島に非難させたのである。そして日本軍はパラオを死守するために文字通り死を覚悟して戦った。
日本軍は圧倒的に不利だった。アメリカに制海権・制空権を掌握されている上に、兵力14倍、航空機200倍以上、戦車100倍、重火砲1000倍という歴然たる戦力差。しかしそれでもアメリカに上陸作戦史上最高の損害比率を出させるほどに抵抗し、
全く補給もなく73日間も守り通し、玉砕したのだ。
最期に「サクラ・サクラ」という電文だけを残して。
その戦いの甲斐あって最大激戦地・ペリリュー島での民間人死傷者はゼロだった。
戦後に島に戻った島民たちは、放置されていた夥しい数の日本兵の亡骸を泣きながら埋葬した。後にペリリュー島のオキヤマ・トヨミとジョージ・シゲオが“ペリリュー島の玉砕戦”を、日本の国花・桜に託して作った「ペ島の桜を讃える歌」は、今でも彼らに愛唱されているという。
後にペリリュー神社は青年神職南洋群島慰霊巡拝団やイサオ・シゲオ酋長ら島民の手により「すべて日本から運搬した材料を使って」再建された。この神社の前には戦中は敵だったアメリカ太平洋艦隊指令長官チェスター・W・ミニッツの言葉でこんなことが書かれている。
「この島を訪れる、もろもろの国の旅人よ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えて欲しい。この島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶う、その心根を。」
ちなみにパラオに存在するこの神社は、天照大神と戦死者一万余名の「護国の英霊」をご祭神とする神社である。
パラオ共和国大統領トミー・E・レメンゲザウ・ジュニアは、敗戦から復興し様々な分野において世界を牽引する力になっている今日の日本を称え、また、戦時中のパラオ統治に今でも感謝し、パラオは世界で最も親日感情が高い国と言った。そして当時を知るパラオの長老達は今でも日本のことを、「内地」と呼んでいる・・・・・。(終)
如何でしたでしょうか?今回のお話も、鈴木さんより、届けていただいたものです。
また、昔の日本人の温かい思いやりの気持ちがひしひしと伝わるお話です。こういう話を、もっともっと、たくさんの人に伝えていけるといいな~と思います。ありがとうございました。
このお話を読ませていただき、涙が止まりませんでした(^^;)ほんとに素晴らしいお話ですよ!!
<世界で最も親日的な国>
「パラオのおはなし」
パラオは1994年にアメリカから独立した時、日本の国旗である日章旗をモデルにした月章旗を作り、時刻の国旗にした。日本の日の丸が太陽を模しているのに対し、パラオはほぼ同じデザインの色違い(青地に黄丸)で太平洋に浮かぶ月を象った。ただ、パラオは国旗の月は日本の太陽と違い、中心から微妙にずれている。これは謙虚にも「同じでは日本に失礼だから」と、わざと中心をはずしたのだという。パラオは日本の国旗を元に自国の国旗を作り、しかも日本の心も忘れない。現地民に愛された日本統治と、受け継がれる礼儀正しい民族性が現れている。ちなみにパラオの国定教科書には全462ページのうち36ページが日本統治時代にあてられ、章には「日の丸の旗の下」というタイトルがつけられている。どの統治国も日本は教育に厳しかったが、それらの教えもルールも単純な賛美など客観的に事実が教えられている。また、今でもパラオでは日常的に沢山の日本語(たとえば「扇風機」「大丈夫」「浴衣」「どうぞ」「大統領」など多数。日常的すぎて現地の若者はそれが日本語であることを認識していないほど)が残っていたり、「桜」の樹が無い国にも関わらず、桜の花に抱く美しいイメージだけで歌を作り、今も愛唱されていたりと、台湾よりもさらに親日的である。日本の統治が終わった時にはパラオでも米国による反日教育が行われたが、年長者に「そんな話はない」とあっさり否定され、浸透しなかった。ちなみに一部に州では英語と日本語が併用されており特にアンガウル州ではアンガウル語、英語に並び、日本語が公用語として使われている。また、パラオ人の「8割」はその姓名のどちらかに「日本式の名前」を付けているといわれる。
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。「あそこでみんな死んでいったんだ・・・・」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地がつくられた。老人は村の若者達と共にその作業に参加した。日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況が日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。仲間達と話し合った彼は代表数人と日本の守備隊長のもとを訪れた。「自分達も一緒に戦わせてほしい!!」と。それを聞くなり隊長は激高し叫んだという。
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!!」・・・・日本人は仲間だと思ってたのに・・・・・
にせかけだったのか。裏切られたおもいで、みな涙を流した。
船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない。村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に出てきた。そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
その瞬間、彼らは悟ったという。あの言葉は、自分達をすくうためのものだっと・・・・・・。
「パラオの統治者である日本軍」としては、パラオ諸島の小さい島・ペリリュー島の民間人を“圧倒的不利な戦局”に巻き込んではならないと配慮したのだ。そして船舶も乏しい中、空襲を避けて夜間に船を出し、住民の全員をパラオ本島に非難させたのである。そして日本軍はパラオを死守するために文字通り死を覚悟して戦った。
日本軍は圧倒的に不利だった。アメリカに制海権・制空権を掌握されている上に、兵力14倍、航空機200倍以上、戦車100倍、重火砲1000倍という歴然たる戦力差。しかしそれでもアメリカに上陸作戦史上最高の損害比率を出させるほどに抵抗し、
全く補給もなく73日間も守り通し、玉砕したのだ。
最期に「サクラ・サクラ」という電文だけを残して。
その戦いの甲斐あって最大激戦地・ペリリュー島での民間人死傷者はゼロだった。
戦後に島に戻った島民たちは、放置されていた夥しい数の日本兵の亡骸を泣きながら埋葬した。後にペリリュー島のオキヤマ・トヨミとジョージ・シゲオが“ペリリュー島の玉砕戦”を、日本の国花・桜に託して作った「ペ島の桜を讃える歌」は、今でも彼らに愛唱されているという。
後にペリリュー神社は青年神職南洋群島慰霊巡拝団やイサオ・シゲオ酋長ら島民の手により「すべて日本から運搬した材料を使って」再建された。この神社の前には戦中は敵だったアメリカ太平洋艦隊指令長官チェスター・W・ミニッツの言葉でこんなことが書かれている。
「この島を訪れる、もろもろの国の旅人よ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えて欲しい。この島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶う、その心根を。」
ちなみにパラオに存在するこの神社は、天照大神と戦死者一万余名の「護国の英霊」をご祭神とする神社である。
パラオ共和国大統領トミー・E・レメンゲザウ・ジュニアは、敗戦から復興し様々な分野において世界を牽引する力になっている今日の日本を称え、また、戦時中のパラオ統治に今でも感謝し、パラオは世界で最も親日感情が高い国と言った。そして当時を知るパラオの長老達は今でも日本のことを、「内地」と呼んでいる・・・・・。(終)
如何でしたでしょうか?今回のお話も、鈴木さんより、届けていただいたものです。
また、昔の日本人の温かい思いやりの気持ちがひしひしと伝わるお話です。こういう話を、もっともっと、たくさんの人に伝えていけるといいな~と思います。ありがとうございました。
2008年04月15日
「エルトゥールル号の遭難」 ~生命の光から~
今回も心暖まる実話パートⅡを紹介します(^^) 半田倫理の鈴木さんに教えていただきました。感謝!!です(^^)
鈴木さんから・・・(なぜこんな素晴らしい事実を日本は教科書で教えないのか!)と、思われるお話ですよ・・と。
和歌山県の南端に大島がある。その東には灯台がある。明治三年(1870年)にできた、樫野崎灯台。今も岸壁の上にたっている。
台風が大島を襲った。明治二十三年九月十六日の夜であった。
午後九時ごろ、度々カーン!と風と波がつんざいて、真っ暗な海のほうから音がした。灯台守(通信技手)ははっきりとその爆発音を聞いた。「何か大変な事が起きなければよいが」灯台守は胸騒ぎした。しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、もう、何も聞こえなかった。そのとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきた。
全長七十六メートルもある船。しかし、まるで板切れのように、と波の力でどんどん近づいた。灯台のある岸壁の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて海面には岩が鋭くでている。
船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。この大爆発音を灯台守が聞いたのだった。乗組員全員が海に放り出され、波にさらわれた。
一人の水兵が、海に放り出され、大波にさらわれて岩にぶつかった。意識を失い、岩場に打ち上げられた。真っ暗な中で、灯台の光が見えた。「あそこに行けば人がいるに違いない!」
四十メートルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着いた。灯台守は、この人を見て驚いた。服は剥ぎ取られ、全身傷だらけだっった。灯台守は、この人が海で遭難した人だとすぐにわかった。「あなたのお国は何処ですか?」・・・・言葉が通じない。
そこで「万国信号音」を見せて、初めてこの人がトルコ人であること、船はトルコの軍艦である事を知った。
傷ついた水兵の応急手当をし、灯台守は村の人達に助けを求める事にした。船の遭難を知った男達は総出で岩場の海岸に下りた。だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と、遺体が見えた。その目をそむけたくなる光景に男達は泣いた。「遠い外国から来て、日本で死んでいく。」男達は胸が張り裂けそうになった。ひとりの男が叫ぶ。「息があるぞ!!」でもほとんど体温が無い。村の男達は、自分達も裸になって、乗組員を抱き起こした。自分の体温で彼らを温めだした。次々に乗組員の意識がもどった。船に乗っていたのは六百人余りで、助かったのは六十九名。この船の名は「エルトゥールル号」である。
助かった人は村のお寺と、小学校に収容された。当時何も無い貧しい村落に六十九名もの外国人が収容されたのだ。島の人達ははじめて見る外国人をどんなことがあっても助けたいと思った。だが、どんどん蓄えは無くなりついに食料は尽きた。もう食べさせてあげられるものが無い」 一人の婦人が言った。「にわとりが残っとる。」「でもこれを食べてしまったら・・・」「お天道様が守ってくださるよ!!」・・・女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理してトルコ人に食べさせた。こうしてトルコ人たちは一命を取り留めたのであった。また、大島の人達は、遺体を引き上げ、丁重に葬った。このエルトゥールル号の遭難は、和歌山県知事にしらされ、明治天皇に言上された。天皇は直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金鋼」に乗せて、トルコに送還なされた。このことは日本中に大きな衝撃を与え全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。・・・この出来事には、後日物語があります。イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日のできごとである。イラクのアダム・フセインが「今から48時間後にイラン上空の飛行機を全てうちおとす!」と、無茶苦茶な事を世界に向けて発信した。現地にいた日本人は慌ててテヘラン空港に向かった。
しかしどの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国の救援機を出して救出していたが、日本政府は素早い決断が出来なかった。空港にいた日本人達は、パニック状態になっていた。・・・そこに二機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機だった。日本人二百十五名全員を乗せて成田に向けて飛び立った。タイムリミットの1時間15分前だった。なぜ、トルコ航空機が着てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。前、駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。
「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人達や、日本人がしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人達は忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは、子供達でさえ、エルトゥールル号の事は知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘラン空港で困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」以上エルトゥールル号の話は、今から、115年も前の出来事なんですね。そして、20年イラン・イラク戦争の時は、トルコの人達によって、多くの日本人が救われたわけです。明治時代に、和歌山(大島)の人達が、トルコの人達を献身的に助けた。
そして、時代が変わってもその事を忘れなかったトルコ人達が、今度は、日本人を助けてくれた。和歌山の大島の人達も、トルコの人達も素晴らしいですね。尚、この事は日本の教科書には載っていないそうです。この素晴らしい事実はぜひ日本の子供達にも伝えてほしいですね。 (終)
いかがでしたか?素晴らしい事実ですよね!!今だからこそ!伝えて行きたい!!っと思います!!
最後まで読んでくださって、ありがとうございました(^^)
鈴木さんから・・・(なぜこんな素晴らしい事実を日本は教科書で教えないのか!)と、思われるお話ですよ・・と。
和歌山県の南端に大島がある。その東には灯台がある。明治三年(1870年)にできた、樫野崎灯台。今も岸壁の上にたっている。
台風が大島を襲った。明治二十三年九月十六日の夜であった。
午後九時ごろ、度々カーン!と風と波がつんざいて、真っ暗な海のほうから音がした。灯台守(通信技手)ははっきりとその爆発音を聞いた。「何か大変な事が起きなければよいが」灯台守は胸騒ぎした。しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、もう、何も聞こえなかった。そのとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきた。
全長七十六メートルもある船。しかし、まるで板切れのように、と波の力でどんどん近づいた。灯台のある岸壁の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて海面には岩が鋭くでている。
船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた。この大爆発音を灯台守が聞いたのだった。乗組員全員が海に放り出され、波にさらわれた。
一人の水兵が、海に放り出され、大波にさらわれて岩にぶつかった。意識を失い、岩場に打ち上げられた。真っ暗な中で、灯台の光が見えた。「あそこに行けば人がいるに違いない!」
四十メートルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着いた。灯台守は、この人を見て驚いた。服は剥ぎ取られ、全身傷だらけだっった。灯台守は、この人が海で遭難した人だとすぐにわかった。「あなたのお国は何処ですか?」・・・・言葉が通じない。
そこで「万国信号音」を見せて、初めてこの人がトルコ人であること、船はトルコの軍艦である事を知った。
傷ついた水兵の応急手当をし、灯台守は村の人達に助けを求める事にした。船の遭難を知った男達は総出で岩場の海岸に下りた。だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と、遺体が見えた。その目をそむけたくなる光景に男達は泣いた。「遠い外国から来て、日本で死んでいく。」男達は胸が張り裂けそうになった。ひとりの男が叫ぶ。「息があるぞ!!」でもほとんど体温が無い。村の男達は、自分達も裸になって、乗組員を抱き起こした。自分の体温で彼らを温めだした。次々に乗組員の意識がもどった。船に乗っていたのは六百人余りで、助かったのは六十九名。この船の名は「エルトゥールル号」である。
助かった人は村のお寺と、小学校に収容された。当時何も無い貧しい村落に六十九名もの外国人が収容されたのだ。島の人達ははじめて見る外国人をどんなことがあっても助けたいと思った。だが、どんどん蓄えは無くなりついに食料は尽きた。もう食べさせてあげられるものが無い」 一人の婦人が言った。「にわとりが残っとる。」「でもこれを食べてしまったら・・・」「お天道様が守ってくださるよ!!」・・・女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理してトルコ人に食べさせた。こうしてトルコ人たちは一命を取り留めたのであった。また、大島の人達は、遺体を引き上げ、丁重に葬った。このエルトゥールル号の遭難は、和歌山県知事にしらされ、明治天皇に言上された。天皇は直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金鋼」に乗せて、トルコに送還なされた。このことは日本中に大きな衝撃を与え全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。・・・この出来事には、後日物語があります。イラン・イラク戦争の最中、1985年3月17日のできごとである。イラクのアダム・フセインが「今から48時間後にイラン上空の飛行機を全てうちおとす!」と、無茶苦茶な事を世界に向けて発信した。現地にいた日本人は慌ててテヘラン空港に向かった。
しかしどの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国の救援機を出して救出していたが、日本政府は素早い決断が出来なかった。空港にいた日本人達は、パニック状態になっていた。・・・そこに二機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機だった。日本人二百十五名全員を乗せて成田に向けて飛び立った。タイムリミットの1時間15分前だった。なぜ、トルコ航空機が着てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。前、駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。
「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人達や、日本人がしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人達は忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは、子供達でさえ、エルトゥールル号の事は知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘラン空港で困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」以上エルトゥールル号の話は、今から、115年も前の出来事なんですね。そして、20年イラン・イラク戦争の時は、トルコの人達によって、多くの日本人が救われたわけです。明治時代に、和歌山(大島)の人達が、トルコの人達を献身的に助けた。
そして、時代が変わってもその事を忘れなかったトルコ人達が、今度は、日本人を助けてくれた。和歌山の大島の人達も、トルコの人達も素晴らしいですね。尚、この事は日本の教科書には載っていないそうです。この素晴らしい事実はぜひ日本の子供達にも伝えてほしいですね。 (終)
いかがでしたか?素晴らしい事実ですよね!!今だからこそ!伝えて行きたい!!っと思います!!
最後まで読んでくださって、ありがとうございました(^^)
2008年04月10日
喜び!と緊張!の一日♪
昨日はノエビアの仲間!明美の誕生日でした

こんな素敵な子!を生んでくださったご両親に感謝(-人-)です
そして、明美お誕生日おめでとう


明美がいつも言ってる、努力を惜しまない女!!日本一!!になりまーす(^0^)/のとうりの子ですよ(^^)
素敵です!!子供達にとっても目標のお母さんですね(^^)
明美の誕生日の新たなスタートのように、昨日はみんなで素晴らしい体験もありましたね(^^)
碧南ロータリーの例会に呼んでいただき、朝礼もさせていただけました(^^)
みんな緊張の中、とっても頑張りましたね
素晴らしい体験をさせていただいた、碧南ロータリーのみなさん、竹中さん、そして紹介してくださった半田倫理の鈴木さんNI感謝(^人^)です!!ありがとございます(^^)


これからも、一緒にいろんな事にチャレンジして、体験していこうね(^^)


こんな素敵な子!を生んでくださったご両親に感謝(-人-)です

そして、明美お誕生日おめでとう


明美がいつも言ってる、努力を惜しまない女!!日本一!!になりまーす(^0^)/のとうりの子ですよ(^^)
素敵です!!子供達にとっても目標のお母さんですね(^^)
明美の誕生日の新たなスタートのように、昨日はみんなで素晴らしい体験もありましたね(^^)
碧南ロータリーの例会に呼んでいただき、朝礼もさせていただけました(^^)
みんな緊張の中、とっても頑張りましたね

素晴らしい体験をさせていただいた、碧南ロータリーのみなさん、竹中さん、そして紹介してくださった半田倫理の鈴木さんNI感謝(^人^)です!!ありがとございます(^^)


これからも、一緒にいろんな事にチャレンジして、体験していこうね(^^)
2008年04月05日
天国からのビデオレター
今日はとっても心暖まるお話を教えていただきました。これは、実話です!!是非皆さんにも紹介したいと思いブログに載せさせて頂きました(^^)
さあー!!始まりますよ(^0^)/ハンカチの用意してくださいね(^^)
サキちゃんのママは重い病気と闘っていましたが、死期を悟ってパパを枕元によんだ。その時、サキちゃんはまだ2歳。
「あなた、サキのためにビデオを3本残します。このビデオの一本目は、サキの3歳の誕生日に。2本目は小学校の入学式に。そして3本目は・・・・・の日に見せてあげてください」まもなく、サキちゃんのママは天国へ旅立ちました。
*そして、サキちゃんの3歳の誕生日。一本目のビデオがかけられました。(ビデオからつないだテレビ画面に、病室のママが映し出されました)
「サキちゃん、お誕生日おめでとう。ママ、うれしいなぁ。でもママはね、テレビの中に引っ越したの。だから、こうやってしか会えない。パパの言うことをよく聞いて、おりこうさんでいてね。だったら、ママ、また会いにきます。」
*サキちゃんの小学校入学の日、2本目のビデオ。
「サキちゃん、大きくなったネ。おめでとう・・・。ママ、うれしいな。どんなにこの日を待っていたか。サキちゃん、ちゃんと聞いてね。ママが住んでいるところは、天国なの。だから、もう会えない。パパのお手伝いちゃんとできたら、まま、もう一回だけ、あいにきます。じゃあ、魔法かけるよ。 エイッ!ほうら、サキちゃんはお料理やお洗濯が
できるようになりました。」
そんなある日、パパに義母がお見合いの話をもってきました。しかしパパは再婚する気はなかったのですが、サキの将来を考えてお見合いすることにしました。パパが結婚の話をサキにした時、サキは自分の部屋に走って行き「サキのママはママしかいないのに」とママの写真を見て泣きました。サキが結婚を受け入れないまま新しい母親を迎える日がやってきました。この日が、3本目のビデオを見る日でした。
そして3本目のビデオ。そのタイトルは、こう書いてあった。
*「新しいママが来た日にサキちゃんに」
そしてサキちゃんが10歳のとき・・・、
「サキちゃん、お家の仕事がんばったね。えらいね。でも、もう大丈夫。新しいママがきたんだから。・・・・サキちゃん。今日で本当にお別れです。・・・・サキちゃん、今、身長どれくらい?ママには見えない・・・・・・。(ママの泣き崩れ、カメラを抱え込む姿が映る) ママ、もっと生きたい・・・。あなたのために、おいしいものいっぱいつくってあげたい・・・あなたの成長を見つめていたい・・・・。本当はサキちゃんと友達の話をしたり、ボーイフレンドの話をしたかった・・・。ひと目でいいから、サキちゃんの花嫁姿をこの目でみたかった・・・・。 じゃあ、サキちゃん、これがママの最後の魔法です。それは{ママを忘れる魔法}です。 ママを忘れて、パパと、新しいママと、新しい暮らしをつくってください。では、魔法をかけます。1・2・3・ハイッ!!」そこでビデオは終わった。*サキはママの魔法のとうりに、3人で仲良く暮らしましたが、しかし最後の 「ママを忘れる魔法」だけは、サキちゃんにも、パパと、新しいママにも、効かなかった。ママは、どんな事があっても忘れる事のない“心の宝石箱”として、ちゃんと残っていた。
これは、実話で、私もテレビのドキュメンタリーで知りました。このビデオの中に、今の世の中に大切なメッセージがたくさん、たくさん、込められているように思います。
愛の深さは全ての人を、幸せに出来るんですね!!
さあー!!始まりますよ(^0^)/ハンカチの用意してくださいね(^^)
サキちゃんのママは重い病気と闘っていましたが、死期を悟ってパパを枕元によんだ。その時、サキちゃんはまだ2歳。
「あなた、サキのためにビデオを3本残します。このビデオの一本目は、サキの3歳の誕生日に。2本目は小学校の入学式に。そして3本目は・・・・・の日に見せてあげてください」まもなく、サキちゃんのママは天国へ旅立ちました。
*そして、サキちゃんの3歳の誕生日。一本目のビデオがかけられました。(ビデオからつないだテレビ画面に、病室のママが映し出されました)
「サキちゃん、お誕生日おめでとう。ママ、うれしいなぁ。でもママはね、テレビの中に引っ越したの。だから、こうやってしか会えない。パパの言うことをよく聞いて、おりこうさんでいてね。だったら、ママ、また会いにきます。」
*サキちゃんの小学校入学の日、2本目のビデオ。
「サキちゃん、大きくなったネ。おめでとう・・・。ママ、うれしいな。どんなにこの日を待っていたか。サキちゃん、ちゃんと聞いてね。ママが住んでいるところは、天国なの。だから、もう会えない。パパのお手伝いちゃんとできたら、まま、もう一回だけ、あいにきます。じゃあ、魔法かけるよ。 エイッ!ほうら、サキちゃんはお料理やお洗濯が
できるようになりました。」
そんなある日、パパに義母がお見合いの話をもってきました。しかしパパは再婚する気はなかったのですが、サキの将来を考えてお見合いすることにしました。パパが結婚の話をサキにした時、サキは自分の部屋に走って行き「サキのママはママしかいないのに」とママの写真を見て泣きました。サキが結婚を受け入れないまま新しい母親を迎える日がやってきました。この日が、3本目のビデオを見る日でした。
そして3本目のビデオ。そのタイトルは、こう書いてあった。
*「新しいママが来た日にサキちゃんに」
そしてサキちゃんが10歳のとき・・・、
「サキちゃん、お家の仕事がんばったね。えらいね。でも、もう大丈夫。新しいママがきたんだから。・・・・サキちゃん。今日で本当にお別れです。・・・・サキちゃん、今、身長どれくらい?ママには見えない・・・・・・。(ママの泣き崩れ、カメラを抱え込む姿が映る) ママ、もっと生きたい・・・。あなたのために、おいしいものいっぱいつくってあげたい・・・あなたの成長を見つめていたい・・・・。本当はサキちゃんと友達の話をしたり、ボーイフレンドの話をしたかった・・・。ひと目でいいから、サキちゃんの花嫁姿をこの目でみたかった・・・・。 じゃあ、サキちゃん、これがママの最後の魔法です。それは{ママを忘れる魔法}です。 ママを忘れて、パパと、新しいママと、新しい暮らしをつくってください。では、魔法をかけます。1・2・3・ハイッ!!」そこでビデオは終わった。*サキはママの魔法のとうりに、3人で仲良く暮らしましたが、しかし最後の 「ママを忘れる魔法」だけは、サキちゃんにも、パパと、新しいママにも、効かなかった。ママは、どんな事があっても忘れる事のない“心の宝石箱”として、ちゃんと残っていた。
これは、実話で、私もテレビのドキュメンタリーで知りました。このビデオの中に、今の世の中に大切なメッセージがたくさん、たくさん、込められているように思います。
愛の深さは全ての人を、幸せに出来るんですね!!




